耐震耐火構造
 「同潤会アパートの建設は、大正時代末期の日本において幾多の調査や科学実験を重ねた新しい建築の技術を、大規模な現場で生かすことのできた唯一の機会でもあった。」(原景)という技術史的にも貴重な経験と成果が反映されたものが同潤会である。これが詳細な調査もされずに、次々と壊されていき、解体9ヶ所、現存7ヶ所という負け越し状態なのだ。保存に力を注ぐ人間にとり、青山アパートは一連の同潤会アパートの天王山であり、勝負どころであるが、相変わらず、人々の無関心と時間との戦いである。有名な建築関係者の中にもこのアパートの重要性が判らず、青山アパートを残す価値が判らないなどと言うのだから、困ったものだ。このような無知は、やはり日本の建築教育が建築史をあまりにおざなりにしてきたためだろう。
少なくとも、海外の建築家でインホテップを知らないような無知な建築家はいない(はずだ)。
失礼、つい脱線してしまった。
 さて、言うまでもなく同潤会が画期的であったのは、耐震耐火を目指し、鉄筋コンクリート(Reinforced Concret;RCこれは補強コンクリートという意味なので、鉄筋を入れるとは限らないし、まだこの作り方さえ試行錯誤の時代で、コンクリートをどう練り混ぜるかについてもセオリーはまだ確立されていなかった)を採用したことである。当たり前のように我々は現在、この種の住宅に住んでいるが、実はこのときが初めてのことだったのだ。
 従って、RC構造の耐震性、耐火性能はまだ実証されていなかったのだが、耐震性については、大震災のおり、東大講堂がちょうどRCで内田の設計により建設中であったので確認され、耐火性能については実際に他の同潤会アパートで実験確認された。その効果は木造や鉄骨に比べ圧倒的であった。彼らの目論見は正しかったわけである。もちろん、コンクリートミキサーが初めて使用された現場でもあったようだ。
また、コンクリート住宅というと、画一的な標準設計ばかりのように思われているが、このときのプランニング(間取り)は単身者、世帯向きへそれぞれ50以上のバリエーションを同潤会全体で展開している。いかに人々の生活を大切に考えていたか判ろう。
 因にこれより少し前大正9年に造られた日本工業倶楽部(http://www.kogyoclub.or.jp/)であるが、これはスラブが無筋!であるところがかなりあるようだ。同潤会はどうなのであろうか。ところで、日本工業倶楽部の内装設計者は鷲巣昌で、同潤会と同じ設計者であった。
 
▲通り沿いの住居はベランダを改造し、全面ガラスのショーウィンドウとして、使用している。 ▲奥の棟にあるギャラリー。道路沿いのギャラリーとは趣が違って落ち着いた感じ。